当時のドイツの新聞雑誌の反響:
"Revue"、1949年8月14日発行

'Revue'、1949年8月14日発行

"レヴューは運命を左右する問いを解明することと取り組んでいます"

"医学の革命?"

1949年5月と6月に、治る見込みの無いと言われた何千人もの絶望している病人たちを治癒したという、ヘアフォルドの奇跡を起こす男、ブルーノ・グルーニングにとって、彼の行いを続けることは、北ドイツの医者や政府機関の狭量によって不可能となりました。1949年5月3日、ブルーノ・グルーニングは彼の行いを続けることを禁じられました。6月29日以降グルーニングは世間から身を隠してしまいました。しかしブルーノ・グルーニングは消えてしまったのでも、彼の素晴らしい治癒力への疑問が解明されないままでいるのでもありません。何故なら“レヴュー”がグルーニングに、批判的ではあるが偏見のない医者たちの前で彼の力の効力を立証できる道を開いたからです。すでにレヴューは、グルーニングが現代の科学者たちに“私は不治の病を治す”ということを証明できる機会を彼に与えました。レヴューは今日、攻撃不可能な150件にわたる実験結果の報告を始めます。皆さん、心理学者であり、教授かつ医学博士であるフッシャー氏の科学的指導管理の下に書かれた我社の特派員、ボンガルツとラウクスの記事をお読みください。

レヴューの計画

レヴューは今日純粋なジャーナリスティックの域を遥かに超えたテーマについて、公表を開始します。その焦点は、ヘアフォルドやその他の町々で不治と言われ苦しんでいる何千という病人たちを素晴らしい、かつ不思議な方法によって治癒、または快方に向かわせた、素朴な、しかもあっという間に有名になった男、ブルーノ・グルーニングです。戦後ブルーノ・グルーニングほど人々を感動させた政治家も財界人も、芸術家もいません。他の国々、英国やアメリカにさえも彼の名声は、称賛と、そして不信と傲慢な拒絶の間に揺れ動きながら、新聞雑誌のセンセーショナルな記事として伝わりました。冷笑的な軽蔑の眼は、煽動的な統制不可能な噂や、矛盾している話を餌として大きくなっていました。それは殆どどこでも、必要とされる真剣さ、責任感、公平に見ること、そしてブルーノ・グルーニングを通して一夜にして世間に知れ渡った、医学の専門的考察分野では考えられない出来事への問題意識に欠けていました。

レヴューの医学専門分野の協力者たちは他のこととの関連からもう既に長いこと、ほとんどの病気の原因は精神的なものではないかという問いと、そしてドイツではほとんど顧みられていない、しかしドイツ国外では行われている、この件の研究の進展状況と取り組んでいました。グルーニングの事例は奇跡の医者、という個人のことに関係しているのではなく、心的、精神的なことに関する重要な問いに関係しているのです。ということは、心が原因の病気の患者を精神治療する際には、この病気の原因を十分に考慮するべきであるということです。グルーニングは精神治療の分野におけるひとつの現象でしょう。ですから北ドイツでグルーニングに関するキャンペーンが展開され、日によっては6000人もの人々が彼のもとに集まり、次第に事態が混沌とし始めた時、レヴューはこれを雑誌に報道しょうという異例な決定を下したのです。
無数のグルーニングの信奉者と、少数ながらも影響力の大きい敵対者との間の対立は耐え難い事態となってしまいました。ヘアフォルドの医者の委員会と役所はグルーニングに治癒禁止の命令を下しました。とは言え、ヘアフォルド、ハンブルグ、そして他の多くの町々では何千人という病人たちが相変わらず、この奇跡を起こす男の助けを待ちわびていました。担当部局は最終的に、ブルーノ・グルーニングの現象に対して途方に暮れてしまい、この現象自体、不幸な結果を招くのではなかろうかと懸念していました。グルーニングは敵の力と信奉者の力のまさつの間で、疲労困憊してしまうのではないだろうか?素朴で知識には乏しい、しかし本物の使命と、人々を助けようという誠実な気持ちに満ちている人間グルーニングは、資本である彼の治癒力を利用し利益を計って強引に彼に近づく人々、そして敵対者に多くの攻撃の隙を与えてしまった“支持者”によって没落してしまうのではなかろうか?又、USAでは今日、すべての大きな病院は真面目な研究心から、グルーニングの能力を医学的に検査するために、彼にそのチャンスを与えるであろうと思われますが、ドイツの医学、又は学問研究所にはその意図があるのであろうか?無益な討論後の6月末には、グルーニングが疲労困憊してしまうのではないかと心配されました。彼には素晴らしい、治癒力、精神に影響を与えることのできる能力があると認定されるのか、又は彼にあると推定される能力は思い違いであり、彼の行いは見世物であると認定されるのだろうか、という何百万人の病人たちの問いに答えは得られません。

この時点でレヴューは特派員スタッフである、ハルムート・ラウクス、ハインツ・ボンガルツと科学者であり、マールブルグの心理学者、そして教授であり、医者のH.G・フィッシャー博士を北ドイツに派遣することにしました。スタッフたちの任務は、薄れだしたグルーニングの足跡を調査することでした。スタッフたちは、グルーニングの手がけた多くの治癒の成功例、不成功例を正確に調査確認することになっていました。この予備調査でポジティヴな結果が出た場合は、レヴューのスタッフはグルーニングの周囲とのつながりとグルーニング個人の像を描くことにしました。この調査の結果によっては、スタッフにはグルーニングを不利にすると思われる取り巻き連中から彼を離し、また彼から信奉者と医者、そして官僚主義当該官庁との間の息のつまるような大混乱を取り払おうという任務と計画がありました。グルーニングの同意の上で、グルーニングは人の知らない、人里はなれたところに避難場所をもらうことになりました。同時にレヴューのスタッフは、予備調査で有利な結果が出た場合は、有名なドイツの大学病院との共同作業への協力を得るための工作をすることにしました。病院はグルーニングに、学者たちの協力の輪の中で彼の能力を立証するためのチャンスを与えるべきです、成功した場合にはグルーニングには彼の行いを続行できる道が開かれるはずでした。不成功の場合は論争の余地の無い明白な報道で、悪い結果をはっきりと世間に公表することにしました。これがレヴューの持っている計画でした。

この計画の実現は1949年6月28日に始まりました。この実現に関しては困難と、異常な出来事と驚きが伴いましたが、計画は成功しました、世間が今日まで知ることなしに。世間にとって、グルーニングは1949年5月29日、23時45分、ハンブルグから消えていました。今日、レヴューは特派員と指導的立場にある医者たちによる事のいきさつと、雑誌レヴューの援助により可能となった、今日最大の驚嘆すべき医学的実験についての詳しい報告を開始いたします。

ブルーノ・グルーニング:魂を癒す医者の現象

精神科医フィッシャー教授の科学的指導のもとに書かれたヘルムート・ラウクスとハインツ・ボンガルツの報告

ブルーノ・グルーニングの足跡
医者の見解

我々はグルーニングがハンブルグから突然跡形も無く消えてしまった6月29日にフランクフルトを出発しました。我々ジャーナリストはもちろん好奇心一杯でしたが、フィッシャー教授は完全に好奇心を隠すことは出来なかったものの大変冷静でした。しかし彼は、体系付けてグルーニングの件に着手し、あせらず良心的に判定しようと決意していました。フィッシャー教授との共同作業は初日から素晴らしいものでした。彼は普通の医学大学を終了していました。彼は医者として病気の診断を下すことや、その病気が悪化したか、治癒したかを判断することができました。一方で彼は、心理学者であり、精神分析と精神療法の助けを借りて治療しています。グルーニングの方法は精神療法の分野に入れられるはずです、もし本当に精神療法に効果のあるものと証明されているのでしたら。ただし、グルーニングが、今日までまだ知られていない他の精神療法の力を持っているなら別ですが。

我々は6月29日の夜、ビーレフェルドに到着しました。偶然にもフィッシャー教授の昔の知り合いの一人が、先ずベーテルにある精神病院の院長であるショルシュ教授に会わせてくれました。ショルシュ教授はグルーニングに対する治癒禁止の決定に賛成した医師委員会の中で一役買った人物でした。我々新聞社の者たちに彼は会おうとはしませんでした、彼はただフィッシャー教授を迎え入れただけで、フィッシャー教授には彼が受けたグルーニングの印象を語りました:「彼はきわめて単純な人間だ、何より彼にはカリスマがない!」この言葉を知らない人に我々は、科学者たちにとってはある使命を背負っていることを意味するのだということを付け加えます。ショルシュは、グルーニングがヘアフォルドや他の土地でも話した彼の背負っている宗教的使命については、全くのお芝居だと言いました。グルーニングは反対に利己的で高慢である。シュルシュは我々に、彼の言葉が真実である証拠として同じ事を証言している筆相学者の鑑定書を見せました。フィッシャー教授は彼の判断を一応承諾しました。ついでながらショルシュ教授が意識的に偏見にとらわれているような印象は受けませんでした。彼にはただ関心が無いように見受けられました。彼はまるぽちゃの愛想の良い人で、できるならブルーノ・グルーニングの件についてはもう聞きたくないようでした。多分彼は精神的に興奮したくなかったし、これ以上やっかいなことに関わりたくなかったのでしょう。彼は我々に、彼の意見を鵜呑みにするのではなく、我々が自分たちでこの事件を追及するようにと言いました。

ビーレフェルドの市立病院の医長であり、教授であるヴォルフ博士はもう少し心の広いところを我々に示しました。彼の意見では、グルーニングの件は無条件に調査しなければいけない、という我々と完全に同じ意見でした、彼はご存知のように、病院でグルーニングの能力を証明させることを提案しました。グルーニングがこの提案を拒否するとしたら、ヴォルフ教授はどう思うことでしょう。医者たちが、医者の前で自分の能力を見せることを拒む、一人の大の不信をもっている男を追い回すとしたら、人は医者たちを悪く思うのではないだろうか?

'Revue'、1949年8月14日発行

何故、グルーニングはこのように彼の方法を観察されることと鑑定されることを避けたのだろうか、と私たちも当然疑問を持ちました。グルーニングにはヴォルフ教授の、公平に観察しようという態度を疑問視する理由があったのだろうか?フィッシャー教授が何週間か後に、ビーレフェルドの市立病院の医者たちによって計画を実施するようグルーニングにすすめたところ、そこの医者たちにもある意図があること、つまりグルーニングに他の誰も助けることの出来ない件をグルーニングにさえも出来ない件を、表面は好意的に彼に押し付けて敗北させようとしていることをフィッシャー教授は残念ながら知らされなければなりませんでした。ですからフィッシャー教授は、グルーニングの方法をビーレフェルドの医者たちに鑑定させることを断念しました。

さらに、デトモルトの公務員医者であるドイエス博士はグルーニングに対して、グルーニングは自分に治癒能力があるという証明を彼が望むだけ全部証明できるであろう、それでも彼は彼の行いを阻止されるであろう!と言いました。これについてフィッシャー教授はヘアフォルドからドイエス博士に電話で質問しましたが、ドイエス教授は自分の発言の隠し立てはしませんでした。グルーニングはドイエス教授に悪い印象を与えたようでした。ドイエス博士は医者として全く高慢であり、自分の取った態度に並外れた自信を持っていました。

グルーニングはこうして医者たちの考え方への信頼を失わざるを得ませんでした、ですからグルーニングが病院で実験するという提案を受け入れなかったからといって、彼を悪く言うことはできません。もともと素朴な人間の目覚めた本能が、彼を待ち構えているフェアでない意図を感じ取ったのでした。

精神に起因している慢性病の洪水

6月30日、我々は先ず、最初に、ノルトライン・ウェストファーレン州から調査を始め、続いてグルーニングが手がけて、治癒されたと言われる患者の調査はハンブルグ地方にまで及びました。これは‘言うは易く、行うは難し’でした。
グルーニングが手がけた病人たちは自分たちの郷里に帰って行きました。誰も彼らの住所氏名を正確には書き止めていませんでした。グルーニングは文字通り、一種の巡回治療師として人々を治療しました、そして人々の話や新聞雑誌、人々の主張や噂以外、彼の信奉者側からも彼の言動についての正確な資料は何ひとつありませんでした。我々がもし、我々以前に既にグルーニングの真の成功例の確かな概観をつかもうと努力していた男性とビーレフェルドで偶然に出会わなかったとしたら、多分大変困難な事態を乗り越えなくてはならなかったことでしょう。
この男性はこの地域の健康保険組合長のランツェンラートという人物で、頭が良く、客観的でしかも先見の明がありました。彼は、グルーニングをよく知っているという、彼がハンブルグに発った後でも活躍した、ヘアフォルドのフュルスマン家にとどまった何人かの人々、グルーニングを信奉する、彼を利用する商売人− この人々について我々は当時まだ区別できませんでしたが −、 いわゆる“信奉者”の中に入り込むことに成功しました。多数の病気に影響を与え治癒するグルーニングの能力と同じように、グルーニングの控えめな態度に彼は事実を確信していました。しかしランツェンラートはこのいわゆる“信奉者”がグルーニングの美点を悪い方向に向けてしまうのではないかと懸念していました。ランツェンラート自身、我々を初めは疑っていました。しかしここでもまたフィッシャー教授が我々グループに門戸を開いてくれ、我々を助けるように、彼の知っている事例を我々に話してくれるようにと頼んでくれました、そしてこの件を正確に調査することからグルーニングの現象の重大さを引き出すことができました。ところでランツエンラ−トを、グルーニングに関係する人々に導いた動機というのが大変興味深いものです。というのは痛みのひどい彼の腎臓病が彼をグルーニングのところに導いたということです。それ以来彼には− この間2ヶ月間が過ぎました− 痛みがありません。しかし同時に健康保険の仕事をしているという運命がグルーニングと人々との関係を調べる動機となりました。彼は我々に、慢性の治り難い病気が多いので、ドイツの健康保険組合は経済的破綻状態に瀕していると語りました。彼は勿論このことをもって、現代の状況を注意深く観察している精神療法医にとっては周知の事実である、病気は精神に起因しているということを証明しました。衝撃を与えた第二次世界大戦は本当に病気の洪水をもたらしました、このうちの大部分は精神的原因ではあるものの、数え切れない胃病やリューマチ、はっきりしたノイローゼ、又は麻痺などでした。心理学者たちはこれらの病気が精神的に影響されている病気である、という概念を作りました。通貨改革の後、統計的に病気の数がますます多くなったことがはっきりしました。この数は以前には決してこれほどの規模にはならず、ただ殆ど臓器に起因するものと見なされていました。ランツェンラートは、グルーニングのもとに治癒の方法を発見し、この方法により保険組合の負担を軽くできるのではないかと真剣に望みました。ランツェンラートは多数の治療と治癒を調査しました。彼は我々にまず20件ちかくの事例を紹介しました。この件を我々は可能な限り入念に分析調査し、我々にとっての重大な疑問を解明しようと、それぞれの病人の担当医との協議が一週間にわたって行われました:グルーニングは治癒できるのであろうか?

7月8日、我々は20件の調査の結果を全部読んでみました。20件の事例のうち7件は、かなり興味深い、どこか秘密めいたものでしたが、グルーニングに対する否応のはっきりした結果は出ませんでした。我々は先ずこの7件にてこずっていたので、調査の3日目には、絶望的な気持ちになってしまいそうでした。少なくとも我々素人は。

住宅局

それはビーレフェルドのクリューグリッヒの件でした。一介のサラリーマンであるクリューグリッヒは戦争中に腎臓に貫通銃創を受けました。傷ついた腎臓は完全には機能していませんでした。戦後、もう片方の腎臓にひどい炎症が起こり、医者は手術をしなくてはならないと思うほど症状が悪化してしまいました。レントゲン写真とその他の所見が我々の手元にあります。聖霊降臨祭の前にクリューグリッヒはランツェンラートを介した手紙を通して、グルーニングに頼み込みました。グルーニングは先ず“遠隔治療”を行い、クリューグリッヒに、これから毎日自分の体に何が起こるか観察するように言いました。クリューグリッヒは、自分の腎臓が機能するようになり、尿の色が更に濃くなったこと、そしてその後どんどん症状が軽くなっていくことを確認しました。

治療に当たった医者も、快方に向かっている事実を確認しました。グルーニングはその後、個人的にクリューグリッヒを訪れ、彼の良好状態は続きました。クリューグリッヒは床を離れ、散歩に行けるようになりました。しかし我々が彼を訪問し、フィッシャー教授が診察した途端に再び彼の容態は悪くなってしまいました。フィッシャー教授にはすぐ、クリューグリッヒが病気を理由に住宅局から更に一部屋を特別にもらっていることがわかりました。彼が“治癒”されたニュースがすぐに広まったことにより、住宅局は彼に、そういうことなら部屋をまた取り上げると通告しました。同日、彼の容態は再び悪化してしまいました。それは仮病ではなく、本当に悪化していました。この悪化は疑いなしに精神的なもの、つまり部屋を失ってしまうのではないかという不安と、病気であれば部屋がもらえる、という思考によるものであることは明らかでした。こういう状態で、彼は治癒されたと言うことはもちろん意味の無いことです。医学ではこういう場合、グルーニングはただ、病人を無気力状態から目覚めさせ、このことによりある期間、病人の抵抗力を強めたのだと説明することでしょう。これによっても、病気の精神的治療と体の抵抗力の直接の関係を医学は認めたのです。しかし治癒が可能というテーゼを却下するのも当然でした。もちろん、グルーニングが後に、クリューグリッヒに再び影響を与えて目的の治癒を果たせたかどうかは謎に包まれています。

彼女は彼女のレジの金庫の上に座っている

同じくビーレフェルドでの2番目の事例はW夫人の件です。彼女は未亡人で自転車屋の持ち主でした。彼女の店の奥にある台所の肘掛け椅子から、店と家族を支配していました。15年来、彼女には証明できる歩行困難があり、水腫のために足が腫れ上がっていました。心臓と腎臓の機能は正常でした。しかし慢性の関節リューマチの徴候がありました。グルーニングは彼女の前に30分間座ってから、間もなく快方に向かうでしょうと予言しました。それ以来彼女は再び中庭を歩くことが出来、快適な毎日を送っていました。教授は、もうほんの軽い水腫があるだけであると診断しました。彼女を治療した女医の診断結果は同じようで、グルーニングがW夫人を訪問して以来、はっきりと腫れが引いたことを確認しました。とは言え、最近は再びまた症状が出てきたようでした。ここでも又精神的な励ましと元気付けが一時的に回復をもたらしたのだろうか、このことは我々にとって十分に納得できることではありません、しかし、これはまたしても心理(精神)状態と病気が密接に関係のあることを示してはいますが?ただしここでもまた、人が、グルーニングの治療を常時受けることによって快方、又は完治するのだろうと思っている場合は別ですが。興味深かったのは、W夫人は長年店のレジを管理していて、マヒのため歩行困難であるというコンプレックスから、常にレジを監視していなくてはいけないという脅迫観念に襲われていたことが確認されたことです。多分グルーニングはこの脅迫観念も一時的に除去したのでしょう。一時的とは言え、ともかく注目に価する成果であり、普通の精神療法専門医は半時間だけでなく、一日、又は何週間も治癒に時間を費やしたことでしょう。しかしこの成果も、グルーニングの中に秘められているものを探り出すために、我々が病院に大実験を頼むのには十分な資料ではありませんでした。

グルーニングが彼女に銀の玉を与えた...

これはビーレフェルドでの最後の事例でした。二人の人物にかかわることでした。一人は少女で、小役人又はサラリーマンの娘で、母親はこの娘に常に圧迫感を与えていました。二人目は工場の持ち主の男性で、どうやら彼の財産をねらっている親戚一同から監視されているようでした。この男性と少女は恋人関係になったので、家族との激しい争いに巻き込まれてしまいました。娘の方は、“これは到底上手くいくはずがない”と関係をやめさせたい母親から常に叱責されていました。この男性と娘は二人とも勇気を失ってしまい、ついに別れてしまいました。娘は稀なほど重い心臓神経症にかかり寝たきりとなってしまいました。同じ時期に男性は事故に遭い、そのときの傷が治っても寝たきりでした。彼の気持ちは恋人のもとへ行くことにありました。この気持ちを抑えていることが次第に病気へと繋がっていき、ベッドに縛られてしまいました。グルーニングはこの件を手がけました。彼が娘を最初に訪ねたときから娘の健康状態は以前よりずっとよくなり、ベッドから離れることができました。彼女はグルーニングを訪ねて、彼に助けてもらいたい他の病人の名前、つまり工場の持ち主の名前を挙げましたが、この男性について詳しいことは話しませんでした。しかしグルーニングには本当の関係がはっきりとわかっていました。彼はポケットからタバコの箱を取り出し、中の銀紙で作った玉を、男性の手の中に渡すまでは彼女の手の中に持っているようにという指示のもとに彼女に与えました。そうすると彼は健康になるであろうということでした。この娘はこの玉を手の中に36時間持っていました。

そうこうしているうちに、この男性の耳に、あちこちに飛び交うグルーニングの成功の噂を通して、グルーニングがシュヴェルドの娘に与えた指示の噂も入ってきました。好奇心が彼をベッドから起き上がらせ、娘のところに行かせました。こうして裂かれていた仲は再び元に戻り、二人とも健康になれたと感じていました。二人はまた度々会うようになったのか、というフィッシャー教授の質問に、娘は「はい、残念ながら」と答えました。不幸を招いた本来の争いとは、母親又は親戚間の緊張関係だったのですから− だから彼女は「残念ながら」と言ったのです− その緊張関係は無くなってはおらず、遅かれ早かれ、昔の状態が再び戻ってくることは明らかでした。

この事例もなにか腑に落ちないものでした、しかしとにかくグルーニングはここでも精神的なものが原因で引き起こされた病気を驚くほど小時間で取り除きました。彼は注目すべき感情移入のできる能力でもって、この病気が何と関連しているのかを読み取り、玉を与えるというトリックを使いました。こういう方法を用いることは腕利きの精神療法医でも恥じる必要はありません。グルーニングはもちろん、引き金となったコンプレックスが彼女になくなったかどうかを聞き落としてしまいました。シュヴェルドの事例は、フィッシャー教授にグルーニングに対する好感を抱かせ始めました。他の何一つ異例なことをグルーニングに見出せなくても、人は彼が精神療法への驚くべき生来の能力を持っていることを否定することはできませんでした。

動かなくなったオートバイ

全く不思議なのはヴェーマイヤーの事例でした。ヴェーマイヤーはヘアフォルドの運送屋でした。熱心に仕事をする、たくましい、健康な神経の持ち主で絶対に嘘をつくような人ではありません。彼も、はっきりと原因のわからない慢性病でミュンスターの病院に入院している妻を助けてもらいたく、グルーニングを訪ねたのでした。グルーニングは彼に、「あなたの奥さんは、ある決まった日に家に帰りたいと言うでしょう、しかしあなたはその前に彼女を訪ねて、家に連れ戻してはいけません。」彼はグルーニングの言葉に従わず、オートバイに乗って妻の居るミュンスターに向かいました。その際に不思議な出来事が起こりました。これは彼にとって全く合点のいかない出来事でした。途中でオートバイが動かなくなってしまったのです。ビーレフェルドで彼はオートバイを修理工場にもっていきました。そこの工員は、このオートバイを上から下まで点検したのですが、どこも壊れているところは見つかりませんでした。この状態で動かないはずはありませんでした。エンジンの点火ランプを変え、ありとあらゆることをしました。工員は何故オートバイが走らないのか理解できませんでした。彼は途方に暮れて、ヴェーマイヤー氏に一番いいのは家に戻ることだ、と言いました。ヴェーマイヤーは家に戻ることにしました。彼がヘアフォルドに戻ろうとした途端、まるで何事もなかったようにオートバイは走り出したのです。彼は大喜びで又行く先を変えようとすると、即座にオートバイは動かなってしまいました。オートバイはミュンスターに向かって走ろうとはしませんでした。

このまさに幽霊の仕業のような出来事に感銘したヴェーマイヤーは、しばらくしてから汽車でミュンスターに行きました。そこで妻は突然、家に帰りたいと言い出しました。彼女は以前よりずっと良くなったと感じ、担当の医者も、もう治療は終わったと言いました。

教授のフィッシャー博士を訪ねた後に、グルーニングに手がけられた病人たち

ビーレフェルドの腎臓病のクリューグリッヒ氏、彼は常に手術への恐怖感と共に生きていました。グルーニングによって治癒された後、レヴューから依頼されたフィッシャー教授が、クリューグリッヒに会うと、彼は大変素晴らしい健康状態であったというのが我々の報告です。

ハンブルグのメント一家の小さな娘の件についてフィッシャー教授は、グルーニングの力を医学にも役立てなくてはいけないことを証明しました。グルーニングは脊椎小児麻痺に精神療法を利用して成功させました。

ヴェーマイヤー夫人の件。フィッシャー教授が彼女を訪れて、彼女の入院中の状態を聞いた時、グルーニングの遠隔治療と彼女の夫の語った体験に大変感銘を受けました。(上記記事参照)

シュヴェルト嬢についてフィッシャー教授は、記事に書かれているようなグルーニングとの出会い、どのように彼が彼女を銀紙玉の助けを借りて、彼女を愛している男性と合わせたか、そしてどのように二人を治癒したのかを語りました。

W夫人、彼女は1946年に死去した夫の自転車屋を継いでいました。フィッシャー教授は、グルーニングが手がける前に、長引く、治癒の見込みのない彼女を治療した女医と話し合いました。

バード・エインハウゼンの商人、カルゲスマイヤー氏は、手術せずに三叉神経が原因の苦しい病が無くなりました。フィッシャー教授はグルーニングが手がけた後に、健康になった彼に会いました。

E夫人のベッドの前に、モルタース博士が座っていました、彼はこの患者をグルーニングが手がける前に治療していました。この事例の場合もレヴューは、ある大学病院の医者たちに病院での検査が必要であることを確信させました。これについては次号に報告されます。

熱いハイルシュトローム
最初の異例なる成功

我々が調査を始めた5日目に、最初の実に大きな驚きを体験しました。そしてこの日から、結局は大げさではなく、センセーションと言える驚くべき出来事が次々と起こりました。

我々はハンブルグに行きました、ランツェンラートが大変感銘したらしい事例がそこにあったからです。この事例は、医者からもしっかりと観察されているものでした。それはハンブルグに自動車の修理工場を持っているメント氏の娘のことでした。娘は脊椎小児麻痺を克服したのですが、麻痺の症状はまだ両脚に残っていました。

'Revue'、1949年8月14日発行ここでは、この治癒の起こる以前に、正確に細心の注意が払われた、明確な診断があったという前置きがあります。グルーニングは子供を手がける時には、いつも静かに子供の前に座り、やさしくその子が何を感じるかを尋ねました、必要とあれば、時には子供を撫でました。そして母親に、これから先、毎日感じることを正確に記録するように指示しました。これは入念に記録されました。フィッシャー教授は、この子供が腰に向かって引っ張られるような痛みを脚に感じたという記録を読みました。痛みは強くなり、麻痺している脚がどんどん温かくなっていき、血液循環が良くなりました。子供は、以前は出来なかったことが出来るようになりました。フィッシャー教授は子供の脚を正確に診察し、驚くほど強く、血液が脚中を循環していることを確認しました。この全ての事象はフィッシャー教授に、今まで脊椎小児麻痺に利用して成功した例のなかった“自己治癒力を高めるトレーニング”の方法を思いださせました。“自己治癒力を高めるトレーニング”は昔、イエナ大学の講師、心理学のI.H.シュルツ教授によって開発され、ドイツで人々に教えられました。このシュルツの方法は基本的には古くからある有名な、そしてヨーロッパ人にとっては神秘的なインドのヨガを現代医学に用いているのと何ら変わりはありません。ヨガがシュルツ教授によって−催眠術と混同されてはいけないのですが− 精神に影響をあたえることによって、患者の決まった体の部分の血液循環が促進される他の方法に変化したのです。この方法を用いて全ての場合に成功があったわけではありません。何よりも、“トレーニング”と名づけられているように、何週間も、時には何ヶ月も時を必要とします。ここ、メントの場合、グルーニングは全く異例な最初の成功を獲得しました。たとえ教育を受けた心理療法医がこの件と取り組んで成功したとしても、グルーニングが30分しか必要としなかったことを、何週間も必要としたことでしょう。フィッシャー教授はその上、ハンブルグのブルグハルド教授ともこのことで長い時間協議しました、そして二人とも、このグルーニングの治癒に大変感銘し、フィッシャー教授は初めて、グルーニングは異常なる心理療法の力を、もしかしたら彼独自の他の力を放出しているのか、又は、何か他のものを持っていて、これは大病院における実験で調査されなければならないことであるという見解を表明しました。同時に脊椎小児麻痺の治癒に影響するものと、その後の状態を長期に亘り、逐次観察しなければいけないとも言いました。

どの医者も彼を助けることはできなかった

'Revue'、1949年8月14日発行翌日既に、新たに強い印象を受ける驚くべき出来事が起こりました。ランツェンラートは我々をグルーニングの手がけた他の人、バード・エインハウゼンのカルゲスマイヤー氏のところに連れていきました。カルゲスマイヤーは47歳で2歳の時から頭痛があり、この頭痛は時が経つにつれて三叉神経痛となってしまいました。これは顔面神経の痛みで、数ある痛みの中でも最もひどい痛みの一つとされています。この痛みのひどさは、人を自殺に追い込むことがあります。この病は普通の医者では殆どどうすることもできません。薬では痛みを十分に緩和することはできません。どうにもならない場合は、神経をアルコール注射によって閉鎖するか、切断する方法が取られます。この手術は難しく、成功率の高い手術ではありません。カルゲスマイヤーは度々手術を受けました。最後にはミュンスターの病院の徹底手術で、扁桃腺と副鼻腔を取られました。そこの炎症部分が顔面痛の原因ではないかと推定されたからです。手術をしても神経痛は無くなりませんでした。もちろん前記した炎症が、神経痛の原因となることは可能です。しかしこの場合、扁桃腺と副鼻腔の除去手術後も顔面神経痛はありました。似たようなひどい痛みを、時々切断手術をされた人が、もう無いはずの腕や脚の付け根に感じることがあります。グルーニングはカルゲスマイヤーに取り組みました。グルーニングは彼に、頭をしっかり両手で押さえているように言いました。

その後カルゲスマイヤーは治癒力の熱い流れを顔中に感じました。痛みは数日ありましたが、それからは日毎に和らいでいきました。彼にはもう4週間も痛みがありません。

ここでも明らかに、血液循環を操縦する特別な能力が成功に導かせたようです。もしかしたら、他の要因も功を奏したのかもしれません。しかし、他の要因は我々にとっては今のところ重要ではありません。今まではただ何件かの、心理療法による三叉神経痛の治癒がわかっています。しかしこの際でも、成功するまでに何週間も何ヶ月間もかかりました。グルーニングはほんの少しの時間で成し遂げました−今日まで例の無い成果です。

有名な、ティーター・フュルスマンの事例

翌日我々は再びヘアフォルドにいました。そしてランツェンラートはフィッシャーに、ディーター・フュルスマンの事例も、もっとよく見ることを提案しました。それは技師フュルスマンの9歳になる息子のことで、この息子が治癒されたことによりグルーニングは、世間に知られるようになったのです。我々はグルーニングが有名になり、つい最近まで滞在していたという家に初めて足を踏み入れました。ディーター・フュルスマンは一度として正式に歩くことを学びませんでした。しかし人は彼の本当の病状を知りませんでした。長いこと彼はギプス包帯をされていました。最後に彼はミュンスターの病院で進行性筋ジストロフィー、つまり筋萎縮であると診断されました。

続く約1年間のベーテルでの入院中に、そこの医者の一人は「息子さんをここに入院させたままでいてもいいし、家に連れ帰ってもいいです。誰も彼を助けることはできません。」と言いました。子供は最後には座ることができなくなり、氷のように冷たい脚をしていました。温かくした毛布、湯たんぽ、そして電気毛布なども、永続的な体の冷えと感覚麻痺を取り除くことはできませんでした。この状態の時にグルーニングはまたとない治療を手がけたのです。少年はすぐに背中に激しい、燃えるようなものを感じ、そして脚全体が突然温かくなりました。この感覚が少年を、フラフラしてはいたものの再び歩けるようにさせました。

ディーター・フュルスマンの事例は最も激しい討論の対象となりました、そしてそれは両方の側の根拠のない誇張された意見の争いでした。それはきっと治癒が話題ではなかったのかもしれません。しかも、症状はグルーニングの治療によっても何一つ変わらなかったという主張もありました、意地の悪い歪曲です。フィッシャー教授の正確な診察の後の見解は、それは、実際は神経性進行型の筋萎縮で、つまり脊椎から筋肉に広がる神経の変性で、成長過程に影響を与えます。変性の起点となるのは多分角質細胞でしょう。そこで大脳からくる神経線維が合流します。この線維が筋肉に通じるこの神経と直接触れることなしに、ここで脳からくる刺激の伝達、又は切り替えが行われます。変性した神経が異常に活気づけられ、この活気が脚の筋肉に伝わったということは否定できない、ということでした。我々を驚かせたことは、グルーニングが恐ろしいほど現実に近い解剖学的な診断を下したことです。

カルゲスマイヤーは、グルーニングは彼に尋ねもしなかったのに、顔面痛のあること、これが2歳の時から彼を苦しめているのだと言い当てたと言いました。我々は彼のことを、感謝から、誇張して言っている病人だと思っていました。しかしディーター・フュルスマンの場合のグルーニングの診断は、証明された報告書として提示されています、グルーニングは脊髄の神経の断裂だと言い、その際、病気である角質細胞のある場所を示しました。ここで少年は上記した、燃えるようなものを感じ、そしてその後奇妙な動きをしました、これをグルーニングは体の再生だと言い、ゆっくりと電流が“流れ込んだ”時の電球の明かりの揺らめきを例に取りました。この説明は極めて単純でした。これは正に事実に即していて、我々にとって感銘深いものでした。

不気味なことの始まり

グルーニングにとって欠けていた決定的に大事なことは、フィッシャー教授がディーター・フュルスマンを、治癒後すぐに診察したという、医者の協力でした。我々はグルーニングがここで仕事をしたとは知らずに居間に入りました。フィッシャー教授はくたびれて、あちこちに置かれている安楽椅子の一つに座りました。殆ど同時に彼の顔色が真っ青になりました。彼はあえいでいましたが、すぐに元に戻りました。それから、まるでどこから来たのか分からない、得体の知れない力が彼に触れたかのように、彼はうつろな目で我々を見ました。彼は我々に、自分が座ろうとした途端に激しい痛みを右の腎臓の辺りに感じ、同時に胸が波打ち呼吸困難になった、と言いました。彼の右の腎臓は昔、何度も炎症を起こしていたのです。腎臓は彼の体の内で最も弱い臓器となっていました。我々が奇妙な現象について頭をひねっていると、そこにランツェンラートが入って来て、「教授が座っている椅子はグルーニングが病人を手がけた時に座った椅子です。」と言いました。

グルーニングは常に、彼はこの椅子に特別な力を残せると主張していました。教授は何かこのことを感じたのだろうか?「もちろんそうだ!」と彼はちょっと息のつまるような静けさの中で言いました。しかし、彼はもう他のことに考えがいっているようでした。突然、彼はランツェンラートに一緒に来るように促し、庭に出ていきました。それは我々がヘアフォルドに着いた時と同じように、病人たちが忍耐強く又は、絶望的にグルーニングを待っている庭でした。フィッシャー教授は病人たちの中から四肢の麻痺している人を探していましたが、動かない脚で東屋に横たわっている可哀そうな少女を見つけました。彼はランツェンラートの助けを借りてこの少女を居間に運び込み、謎に満ちているその椅子に座らせました。それから彼は心理療法家として彼女をいつもの通りに治療し始めました。彼はすぐに彼女の麻痺の原因を見つけました。

この少女はダルムシュタット出身の21歳のアンニ・シュヴェドラーで、1944年の秋にこの町が空襲された時を体験していました。アンニは母親、そして他の20人くらいの人々と一緒にビール醸造所の防空壕で生き埋めになりました。母親も含めた全員、人間一人が抜け出られるような隙間から逃げ出すことができました。しかしどういうわけか、少女の体は壁の隙間に挟まれ動けなくなってしまいました。家は炎々と燃え上がりました。少女の髪の毛に火がつきました。最後の瞬間に防空壕の番人によって外に引っ張り出され、火のついた洋服に水がかけられました。未だに彼女にはこの時のことが記憶によみがえり、話している間中、驚愕に満ちた形相をしていました。彼女は助けられたすぐ後、上手く歩けないことに気が付きました。数日後にはつまずき始めました。歩き方がおぼつかなくなり、とうとう歩けなくなってしまいました。あらゆる医者の療法は成功しませんでした。そして今、この少女はフィッシャー教授がショックを受けたその不思議な椅子に座っていました。

教授は少女が話し終わるまでの間に、いろいろ話を組み合わせ次のことを推測しました:

もしグルーニングが彼の座った椅子に秘密の治癒力を残したのだとしたら、この力は彼がいなくても病人に効くに違いないと思い、教授は簡単に、グルーニングが多くの麻痺した病人をこの部屋で助けたことを、少女に話して聞かせました。彼はそのほか、グルーニングの写真を彼女に見せたりしました。それから彼は、心から力のこもった声で突然少女に命令しました、「立ちなさい。」彼は、グルーニングだったら似たようなことをすると思ったのでした。少女の顔は突然輝き出し、勢いよく椅子から体を起こし、立ち上がれたことに彼女自身驚き、あっけにとられ、初めは一歩も歩けないほどでした。教授はもう一度命令しました:「歩きなさい!」傍に立っていたランツェンラートは軽く少女の手を支えました、それから少女はまだよろよろした足取りで喜びの涙にくれながら、部屋を横切って、驚嘆している母親の座っている椅子まで歩いていきました。しかしここで、アンニ・シュヴェンドラーは倒れてしまいました。二度目が試みられました。この2度目の試みでも、フィッシャーは患者にグルーニングの写真を見せると、今まで麻痺していた脚の血行が強くなり、赤みがさし、温かくなったことが確認されました。少女はまた起き上がりました。教授の命令は、何度も立ったり座ったりすることでした。立ち上がるのがだんだん上手になりました。最後にこの少女は、部屋から出て中庭を通って向かい側の通りまで歩くことができ、そこから車でヘアフォルドの親戚のところに連れて行かれました。

我々全員は息も出来ない緊張感でこの試みを見守っていました。その日の夜、我々は“レヴュー”社に、北ドイツの滞在を延期しなければならない旨を報告しました。グルーニングが一つの現象であることは疑う余地のないことで、この現象は、計画された病院での実験ではっきりさせなくてはならないことでした。我々は来る日にグルーニングと連絡を取り、彼が自分の能力を証明できるようにハイデルベルグの大学病院の医者たちとの間で準備をし、実験を行ないたかったのです

1949年3月から始まったブルーノ・グルーニングに関する出来事

この出来事による混乱騒ぎは大変大きく、部外者になんとか理解してもらい、混乱を抑えるには相当の苦労が必要でした。

1949年3月18日

グルーニングの運命の星が突然ヘアフォルドで光り始めました。ヘアフォルドの技師、フュルスマンの息子、ディーターにあった病気、筋萎縮の本当かどうかわからない、不確かな治癒が起こったとういニュースが世間に知れ渡りました。更に引き続き起こる治癒の報告がつけ加えられました。噂や、ニュースが風にのって広まりました。大勢の病人たちがグルーニングの滞在しているヘアフォルドのヴィルヘルムプラッツ7のフュルスマン家の前に集まって来ました。

1949年4月4日

ヘアフォルドにおけるグルーニングの公開の治癒行為の始まり。大反響。グルーニングはヘアフォルドの奇跡を起こす男となる。一部の人々から、救世主のように崇められれば、崇められるほど、彼は彼の力は神の力そのものであると強調しました。

1949年4月27日

病人の大群が押し寄せてきたことにより、役所は、特に保険機関が介入し始めた。グルーニングとフュルスマンはヘアフォルドの保健所の所長、衛生技官のシーベルト博士のところに招かれた。シーベルトは、今まで彼はグルーニングの行ないを黙って見ていたが、あまりに大勢の病人なので、公共の保健衛生制度の責任者として介入しなければならないと説明した。彼は下手な、挑発するようなやり方で、グルーニングの個人的な事柄を確認しようとした。グルーニングは、シーベルトのやり方を否定し、そのかわりシーベルト自身で、グルーニングが行ないをする場所に来て、彼の方法と成果を確信するようにと要求しましたが、シーベルトはこれを、自分は笑い者になりたくないという理由で拒否しました。

その後の日

3回に亘るフュルスマン、シーベルト博士、ヘアフォルドの刑法監督官、アウアーの会談で、−不器用な、グルーニングの大信奉者である、フュルスマンは彼らにグルーニングの成果を自分たちで確信するように強制した。シーベルトは拒否的態度、アウアーは客観的態度であった。

1949年4月30日

治癒を求める人々がどんどん増えていくことにより、役所との問題が大きくなったので、グルーニングはフュルスマン家で記者会見のようなことをしました。新聞雑誌はこの間、センセーショナルな報道をし、事例の多数の誤報やでっち上げを我が物として公開しました。この記者会見にはヘアフォルの統括局長のマイスターと教区監督のクンストが現れました。医者との交渉も新聞雑誌記者の扱いにも慣れていず、他の出席者たちともしっかりした関係のないグルーニングは少し気後れがしているようであった。大量の病人が押しかけるために秩序が保てなくなったことへの懸念、医者たちの不信の念、又はあらわな反対、そして冷静さに欠けた報道に関することなどが問題点でありました。

1949年5月3日

統括局長マイスターはグルーニングをフュルスマン家に訪問しました。彼は自分で、グルーニングを待っている人々の中から一人の麻痺状態の女性を引っ張り出し、グルーニングのところに連れて来ました。グルーニングはこの女性に明白な治癒をもたらしました、マイスターは大変感銘して彼に別れを告げました。

5月3日の午後

それにもかかわらず、統括局長はその日の午後にグルーニングのこれから先のいかなる治癒行為も禁止する発令を出しました。その禁止令への抗告期間は3週間でした。役所、グルーニング、そして待ちわびている群集−この群集の中にはこれまでの何週間かの間に多数の注目すべき治癒が起こっていた− の間の争いはどんどん大きくなっていきました。

1949年5月13日

禁止後10日たって、表面的には第三帝国時代の民間治療師法を支持するということで、医者の委員会と称する者たちがフュルスマン家に現れました。この委員会は町の代表者から成り立っていました。それはビーレフェルドのいくつかの病院;ヴォルフ・M.博士;ベーテルの療養所の所長、ショルシュ博士;それとビーレフェルドの衛生技官ライナー博士たちであった、その他の参加者は統括局長マイスターと教区監督クンストでした。クンストとヴォルフは公平な態度を保とうと努力していました。完全な拒絶態度を取ったのはライナー博士でした。彼は「皆さん!ここで皆さんに見せられることは、医科学においては何ら一つも目新しいことではありません。我々はこのような病気を、同じ結果がでるように治療できます。私がここに来たからには、奇跡を見せてもらいたいものです。」と言いました。途方に暮れている役所と共にグルーニングの反対者である医者の同盟は、大衆を動かすブルーノ・グルーニングの現象に対して、だんだん強固な態度を取るようになっていきました。それでもグルーニングは6月28日までにイギリス国境にいたるまでのドイツ国内の大学病院、ビーレフェルドの市立病院、又はベーテルの病院の医長と協定の上、医学的に検査可能な病気に対するグルーニングの能力を立証することを提案しました。

その後の日々

治癒禁止になったのだから、グルーニングを待つのは無駄であるという口頭、又は文書による通達にもかかわらず、治癒を求める人々はフュルスマン家の前でじっと頑張り通していました。ただブルーニングの遠隔治療が、この待ち続けている人々にも効くということで、確認し難い数々の治癒が起こりました。

1949年5月20日

グルーニングは彼の治癒方法をいくつかの私立病院で立証することを表明しました、しかしヴォルフ教授のところに行く途中で、医者たちの態度に対する、本能的な疑念が彼の気持ちを変えてしまいました。その時に、グルーニングに治癒されたクレメ氏が一役買って出ました。クレメはグルーニングに、ヘアフォルドの役所との戦いはやめて、そのかわりに彼が良く知っているデトモルドの理事長のドラケと話し合うように薦めました。

1949年5月23日

ドラケとの会見は、不幸な条件のもとに行われました。グルーニングの側近の中に現れ、自分を大学の講師と称しているエゴン・アルトア・シュミットのせきたてで、グルーニングはドラケを訪問する前夜にドラケの健康状態を遠隔診断しました。グルーニングの遠隔診断は特別なことで、そう簡単に医学の用語を用いるわけにはいきません。(レヴューの記事にあるので皆さんはご存知のはずです。)グルーニングの能力を確信しているシュミットはドラケにこの遠隔診断書を見せました。ドラケはこの中にいくつかの間違いを発見しました。グルーニングのはっきりした敵対者、そしてこの委員会に参加したデトモルドの公務医、ドイエス博士が優位になりました。彼はグルーニングにはっきりと、グルーニングが何をしようと、何を立証しようと治癒禁止は解けないであろうと言いました。(このドイエス博士の発言は彼自身によって、レヴューの協力者である教授のフィッシャー博士に伝えられました)ドイエスの言葉には事の進展に不幸をもたらすような翳りがありました。グルーニングの医者に対する本能的不信感は確固たるものになってしまいました、そして彼にとっても医者とまともに集うことは不可能となりました。ドイエス博士はグルーニングに、特別の場合には法律条項を犯すことなく民間治療室を開いて治療を実施できる特別許可を得ることのできる、民間治療師法の特別条項を見せませんでした。

1949年5月24日

グルーニングとヴェールマン助役との話し合いは、統括局長のマイスターが休暇中なのでヴェールマンが代理として行われたのでした。その時にヴェールマンは8人の証人の意見の内容をつぎのようにまとめました:ヴィルヘルムプラッツ7の家の前に何千人の人が待っていようと、彼には関心がない。病気を治癒することは二次的なことである、彼が関心のあることは魂が救われることと罪が許されることである。全ての肉体の苦痛が治癒されることは魂が治癒されることに比べれば些細なことである。グルーニングも“罪の許し”を手がけることが出来るのかという問いに、グルーニングが返答をしなかったということで、彼にとってはグルーニングとの話し合いは大変不満足なものでありました。

1949年6月7日

グルーニングのところに新たに医者委員会からの訪問客がありました、今回はヴェールマンと衛生技官シーベルト博士に属する人々でした。5時間に亘る話し合い。全ての治癒に関する行ないの禁止は変更しないこと。苦情申し立ての期限は、7月28日までに延期される。グルーニングには再度、周知の病院で彼の治療方法を立証するという提案がありました。しかしグルーニングの中に深く根を下ろした医者への不信感が、それには至らせませんでした。(レヴューから依頼された人物である教授のフィッシャー博士は後に、グルーニングの不信に理由がないとは言えないと言いました。)

1949年6月18/19日

ヴィルヘルムプラッツでグルーニングを待ち続ける何千人もの病人をなだめるためには、ヴェールマンは治癒禁止を一時的に緩和するより仕方がなかった。

1949年6月20日

ヴェールマン家と市庁舎の前で、治癒を待ち望んでいる人々のデモが行われた。警察は手の施しようがなかった。

1949年6月21日

治癒禁止が再度緩和される。

1949年6月24日

統括局長マイスターが休暇から帰り、治癒禁止を承認する。混乱状態はますます悪化していった。

1949年6月25日

グルーニングに喘息を治癒してもらった、豪商ウェストファルの招待により、グルーニングはハンブルグに行くことになる。彼はそこで彼の方法を続けられることを望んだ。しかしこれはハンブルグでも不可能であった。

1949年6月29日

グルーニングは行く先の宛てもなくハンブルグを立ち去る。彼にはフュルスマン夫妻が付き添っていた。一般大衆と警察は彼の足跡を失ってしまいました。